《そのとき彼女は男を追い越し、あやうく車に轢かれそうになって後ろに飛び退くと、男の手にぎゅっとしがみついた。信号が青に替わった。男は彼女の肘を手探りでつかみ、一緒に道を渡った。『はじまった』クレッチマーは思った。『ついに狂気の沙汰がはじまったんだ』》p.45
青信号が赤いので感嘆する。33歳のナボコフがロシア語で書いた初期作品なんだけど、手を替え品を替えのサービスが満載で、再読なのに舌を巻いた。初読のときよりいっそう面白い。なので以下の感想は結末まで触れます。
ベルリン。裕福な美術評論家のクレッチマーは、貞淑な妻とのあいだにかわいい女の子もおり幸せな日々を送っていたが、たまたま入った映画館の暗闇で座席案内係をしていた若い娘、マグダにひと目ぼれしてしまう。よせばいいのに彼は危険な方向へ踏み出し――という始まりは、まあ、どこにでもある。連続ドラマのあらすじ説明がこんなだったら、ほかの番組に埋もれてしまうだろう。
ところが、そんな三文不倫話をめぐるこの小説の進み方は最初から容赦がない。教養と金はあっても凡庸なクレッチマーがこっそり願望(凡庸な願望)を抱く過程をさっさと描き出したかと思えば、返す刀でこんどはマグダの生い立ちを手早く語りはじめ、彼女が早熟で外見に恵まれてはいても打算的で小ずるい、そして凡庸な16歳であることを、一切のもったいをつけずに明らかにしていく。
ふたりの運命が、それなりの駆け引きとありそうな勘違いとあってほしくない偶然によって交錯していく様子をテンポよく説明していく語り口はくねくねしながら淀みなく流れ、こんなふうに複数の登場人物を動かして筋を絡ませていくのはテーブルに大小の食器を並べるくらいの簡単な作業だと言わんばかりの書きっぷりである。
そのようなほとんど即物的な手つきでもって、クレッチマーの幸福な家庭生活はあっさり崩壊させられるのだが、そうなる途中にもこんな部分がある。クレッチマーがマグダのために住居を用意すると、彼女は意図的な不用意さで彼の本宅に「私、ご主人の愛人です♡」と丸わかりの手紙を出していた。最悪。クレッチマーは血相を変える。
《彼女は肩をびくっと震わせ、本を手に取るとそっぽを向いた。左のページには挿絵があった。グレタ・ガルボが鏡に向かって化粧しているのだ。
クレッチマーにこんな考えがよぎった。『なんて奇妙なんだ――とんでもない災難がふりかかっているっていうのに、あんな挿絵のことが気になるなんて』。時計は八時二十分前を指していた。マグダは体をくねらせたまま、まるでトカゲのようにじっとしていた。
「きみはぼくを破滅させたんだ……。きみはぼくを」》p.85
人生の危機的な重大事のまっただ中で、どうでもいい小さな物事に注意が向くこと。そして、そんな自分を冷静に見ている自分に気付くこと。それでも重大事は重大事のままであること。抜群の巧みさでストーリーを進めながら(つまり、作りものである小説を手際よく仕立てていきながら)、合間にこういった“些細だけど、本当のこと”をさりげなく挟んでみせるのは、過剰なサービス精神というか、嫌味なまでのうまさというか、いずれにせようなってしまう。
さらに、いま「どうでもいい小さな物事」と書いた“マグダが、映画の大女優が載った本を読んでいる”姿は、じつは小説後半への布石にもなっている。だからこの部分は、この場面では「どうでもいい小さな物事」であり、小説ぜんたいとしては欠かせないピースでもあるというふうに、視点の置き方でくるくる変わって見えるし、さらにさらに、このような目の回る細部はここだけではなくあちこちに置いてある。
とはいえこの小説は、発表当時だってすでに山ほどあっただろう不倫ドラマのてっぺんに、よくできたひとつの作例として飾られることをめざして書かれているわけではない。だいたい、ここまでで小説は1/4程度しか進んでいない。このあと、クレッチマーがマグダと夢だったはずの新生活を始めてから第3の主要登場人物が再登場して、それはホーンという名の風刺画家なのだが、なぜ再登場かといえば、彼はマグダがクレッチマーに見初められるよりも前、彼女の初恋の相手だったからであり、豪奢な生活を送らせてくれる金づるとして利用するだけのクレッチマーと違って、マグダがただひとり真情を寄せるこの男の闖入から『カメラ・オブスクーラ』はベールを脱いでいく。
マグダとホーンは結託してクレッチマーの陰で情事を重ね、クレッチマーはますます間抜けに見えてくるし、くわえて彼とその元家族を不幸が襲う。いっぽうでマグダの俗物っぷりも増していくから、「立派でもすぐれた人物でもないクレッチマーに、立派でもすぐれた人物でもないマグダがひどいことをする」のが小説の目的のようになってきて、自分は何を読まされているのか不安になるのと同時に、マグダとクレッチマーの両者をときに外側から観察するようなホーンの立ち位置がだんだん不思議なものに思えてくる。この男は小説のなかにいながら(登場人物である)半分は外に、または上に立っているようでもあり、三方がうまく収まるなんてことがありえるはずのないこのあとの展開で、彼もちゃんと泥仕合を演じるのか、それとも身をかわし続けるのだろうか……といぶかしくなるなど、クレッチマーがふたりにもてあそばれるように、読んでいるこちらの気持もこの小説に操られてしまう。
そのようなコントロールのために小説が繰り出す手練手管は、まずは自在な視点の転換である。クレッチマーの側から、マグダやホーンの側から、さらにはどうでもよさそうな脇役の側から、とカメラを次々に切り替えて、周囲の様子や人の外見など目に見えるものと同じように、当の人物の内面にまでもピントを合わせ、まるで手に取っていろんな角度から観照できる物体のように映し出す。
こういった“何でも見える”視点を振り回しながら、小説は真に異常な場面――クレッチマーは何も見えなくなる――を準備する。
ホーンをまじえた3人で自動車旅行に出かけるという、思えば不自然すぎる状況で、ある偶然からクレッチマーはやっとふたりの裏切りに気付くが、直後、彼は失明してしまう(本当にひどい話だ)。スイスの山荘で、マグダは彼を献身的に介護するふうを装いながら、そこにこっそりホーンを招き入れる。外界のすべてをひとつひとつマグダに教えてもらって知るクレッチマーは、マグダの言葉をそのまま信じるしかない(以下、巻末の訳者による「解説」の一部をなぞる)。
《マグダは彼にその部屋の色彩をひとつ残らず描写してやった。青い壁紙、電気スタンドの黄色い傘――けれど、ホーンにそそのかされて、どの色もわざとちがう色に変えられていた――ホーンには、盲目の男が自分の住む小さな世界を、彼つまりホーンが言ったとおりに想像するのが愉快なことに思えたのだ。》p.299
クレッチマーはこれまでもさんざんふたりからコケにされ、ひどい仕打ちを受けてきたあわれな男だったが、ここでとつぜん、読者は自分がそんな彼に重ねられていることに気付く。
わたしたちはページの上に並んだ言葉をもとにして、それらの示す内容を想像しながら小説を読むけれども、言葉に先立って内容があるのではない以上、その言葉が何らかのウソであってもウソだと気付くことは原理的にできない。ここにホーンは「いない」と言われたら、それで「いない」ことになる――本当は「いる」としても!
登場人物でありながら状況を外側から観察するようなホーンと、彼がマグダを通して創作する偽の現実(マグダとふたりきりで療養中)を本当のものと信じ込まされるクレッチマーの関係は、小説の作者と読者の関係に似てくる。盲人をいたぶって楽しむサディストが描かれているということ以上にこの場面がグロテスクに映るのは、小説を小説として成立させるうえで本来なら読者には隠しておかないといけないはずの舞台裏をあけすけに見せられているからだろう。
ここの事情を訳者の「解説」はもっと丁寧かつ深いところまで教えてくれていて、それを読んだからこそ今このようなことを書いているのだけれども、わたしがさらにいっそうすごいと思うのは、そんなふうに小説の言葉と読者の問題にまで広がる構図を作中に作り出しながら、作者にも重ねられそうな権能をふるうホーンという男を、この『カメラ・オブスクーラ』はほかの登場人物より一段階抽象的なレベルに持ち上げたりはしないことである。小説はむしろ逆のことをする。クレッチマーの窮状を知った人物が山荘を突きとめ駆け込んでくる直前――
《その頃、ベランダのガラス戸をとおして陽の光が差し込む小さなリビングでは、クレッチマーとホーンが向かい合わせになって座っていた。[…]ホーンは小さな折りたたみの椅子に腰をおろして、真っ裸だった。庭や屋根の上で(そこで彼は、アイオロス[ギリシア神話の風の神]の琴を真似て風のように柔和なうなり声をたてていた)毎日焼いたおかげで、翼をひろげた鷲のような黒い胸毛のある、細身だが力強い彼の肉体は、黄色っぽいコーヒー色に染まっていた。足の爪は汚くてぎざぎざになっていた。彼はちょっとまえにキッチンの蛇口から頭に水を浴びたので、黒い髪はべったりと貼りついてつやつやとした光沢があった。突き出た赤い唇に長い草の茎をくわえ、毛だらけの足を組み、あごを片手で支えていたが、その手首にはマグダのブレスレットが光を放っていて、彼はクレッチマーの顔から目をそらさなかったが、クレッチマーのほうもじっと彼を見つめているように見えた。》pp.318-319*強調は引用者
口の先から草の茎を伸ばした真っ裸の男性が乙にすましたポーズをとっているこの場面が、いったん読者(クレッチマー)に対する作者の似絵のような上位存在になりかかっていたホーンを、肉体を持った登場人物のひとりに引きずり下ろす。盲人をからかうために下着まで脱ぐホーンの腹肉には、きっと俗物・オブ・俗物と大書してある。
ついでに言うと、ここ、ラストまで残り30ページ程度で姿を現わしたこの裸は、小説冒頭30ページ付近で垣間見えた別の裸ときれいに対をなしている。クレッチマーにもホーンにも出会う前、マグダは美術学校のモデルをして日銭を稼いでいた。
《こげ茶色の髪をショートにして素っ裸になった彼女は、カーペットのうえに横向きにすわって、ついた手をまっすぐに伸ばして体を支え――そのため肘のところには皺のよった優しそうな目玉ができていた――痩せた上半身をこころもち傾け、物思いに沈むような物憂げなポーズをとり、画学生たちが目線を上下させる様子を上目遣いにながめ、陰影をつける鉛筆が紙にこすれるかすかな音や、木炭のきいきい響く音に耳を澄ましていた――でもすぐに彼女は、今あの人は自分の太ももを写しているな、あの人は顔を描いているんだな、などと考えるのには飽き飽きしてしまって、たった一つの願いといえばもう、ただ姿勢を変えたいということだけなのだ。》pp.29-30
盲目のクレッチマーから振り返って考えれば、ここにあるのはマグダの裸体ではなく、裸体を語る言葉だけである。読者が(わたしが)こんな記述からかすかに期待をあおられても、彼女の裸はぜったいに見えない。まったく当たり前のことだが、頭の片隅でそれを――小説が言葉でしかないことを――ひそかに残念に思いながら続きを読み進めていた読者の(わたしの)煩悩は、さっきの山荘まで来て全裸中年男性の丁寧きわまりない描写という報いを受けるのである。
ホーンの《黄色っぽいコーヒー色に染まっ》た《細身だが力強い》裸が、このような言葉だけで本当によかったと軽薄な反省を促された。クレッチマーやマグダが凡庸な俗物だっただけでなく、ホーンも、読んでいるわたしも俗物であることを『カメラ・オブスクーラ』は突き付ける。
小説はこのあと最後のひとひねりを迎え、クレッチマーにいくらかの同情をおぼえざるをえない読者の心を引きずり回してフィニッシュを決める。
一片の容赦もない終わり方にまずは茫然としたあと、その次には、ここまでのすべてを造形している(言葉で造形している)『カメラ・オブスクーラ』の作者の存在が、いっさい見えずに言葉にもされないまま、こちらの意識にせり上がってくる。途方もない。のちのヴラジーミル・ナボコフは、この小説の出来ばえに不満だったという。途方もない。
■ ご参考
・〈あとがきのあとがき〉「ナボコフから読者への挑戦状」貝澤 哉さんに聞く
→ https://www.kotensinyaku.jp/column/2011/10/005139/
この小説の刊行によせて、光文社古典新訳文庫編集部が行ったインタビュー。
《こうした大衆映画の大流行のなかで、「小説はいかに延命できるか」をナボコフは考えていた。そしてまるで映画のような設定を取り入れながらも、まったく違った言葉でしかできない芸術世界を構築し、「どうだ!」と読者に提出しました。その一つが『カメラ・オブスクーラ』なのです。》
なお、話のなかに出てくる『引き裂かれた祝祭 バフチン・ナボコフ・ロシア文化』(論創社)でナボコフに関する文章は最後の1/5くらいだが、そこでは、ナボコフをすぐれた虚構の作り手として仰ぎ見て、すすんでその掌に乗るような読み方への注意喚起が繰り返しされており、また反省させられたが、もうここまで書いてしまった。
そしていちばん具体的にナボコフ作品を論じた(『カメラ・オブスクーラ』も大いに触れられる)文章は、ここで公開されている。とても面白い:
・貝澤哉「暗闇と視覚イメージ-「ナボコフ的身体」の主題と変奏-」(2003)
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《「ナボコフ的身体」というようなものが仮に想定できるとすれば、それは視覚を奪われた盲目の身体である。このように考えてはじめて、ナボコフがなぜあれほど、視覚的な芸術や視覚的モチーフに執拗にこだわったのか、理解できるようになるだろう。》
■ 追記:
『カメラ・オブスクーラ』やナボコフ作品で特別に、というのではなく、広く小説一般でわたしがどうしようもなく惹かれる展開(個人的なツボ)がこの作品にもあった。
不倫がまだ家族に知られていなかったころ、赤いドレスをまとったマグダがクレッチマーひとりのときを狙って家まで無理やり押しかけ、傍若無人にふるまう。いつ家族が戻ってくるかびくびくもののクレッチマーは、彼女のいたずらで一室に閉じ込められてしまう。弱り切ったところで鍵を開けたのは、急に来訪した義弟。クレッチマーがとっさに「泥棒に入られた」とごまかしたため、ふたりで全部屋を見て回ることになる。
《二人が書庫のなかを通り抜けようとしたとき、クレッチマーは突然目の前が真っ暗になった。というのも書棚と書棚のあいだ、回転式本棚の背後から、真っ赤なドレスの裾が覗いていたからだ。》p.69
クレッチマーはもう気が気ではない(読者の心臓にも悪い)が、そこに家族が客を連れて帰ってきたから、マグダを逃がすどころか書庫へ行くこともできない。
《かつて見たなかでもとびぬけて恐ろしい夢が、終わりなくずっと引き延ばされているように思えた。》p.70
《彼には、自分たち全員が――[…]――どういうわけかたえず家じゅうを徘徊して、マグダがするりと脱出できないようにしていると思えた》p.71
……時計の針の進みが拷問のように遅く感じられただろう数時間が過ぎ、帰る者は帰って、ほかの家族も眠る。
《あたりはすっかり静まりかえり、まるでなにかが待ち構えているようにひっそりとして、そのうち静けさ自体が耐え切れなくなって今にも大声で笑い出すんじゃないかと思えた。》p.71
文章のうまさを見せつけすぎだがそれはともかく、大変な困難をクリアして恐怖は消え去り、だからこそ、震えるほどの幸福感にクレッチマーは包まれる。それは想像できなくもない。
《彼は書庫のドアをそっと開けて電気をつけた。「マグダ、正気じゃないよきみは」彼は熱っぽくささやいた……。それはひだ飾りのついた赤い絹のクッションで、書棚の下のほうに入った大型本を床の上で見るために、彼自身がついこのあいだ持ち込んだものだった。》p.72
ここでバッサリこの章は終わる。この、いると思っていた人物が、じつはいなかったとあとからわかる展開が、なぜかわたしの琴線を鷲掴みにする。何なんだろう。それでずっと前にこんなメモをしていたのもおぼえているんだから、ほんと、何なんだろう。
「いる」と思っていた存在は、その時点では、想像ではなく実在していた(クレッチマーにとって、目の前に義弟が「いる」のと同じく書庫にはマグダが「いる」)。そんな存在は、あとから「いなかった」とわかっても、さかのぼって消えたりはしない。それどころか、「いなかった」とわかったために、その「いる」だった存在は――実際にはいなかったんだから「いた」存在に変わることもなく、「いる」だった存在のまま――「いなかった」現実から切り離されて、独自の「いる」を続ける。そんな感じかと思うが、もうちょっと意味の通じる説明ができるようになるまで、メモだけはしておく。